最終更新2024年5月末日
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基本情報
・佐藤勝太(さとうかつた)
・1972年(昭和47年)3月10日 札幌市生まれ
・現在52才
・大学入学時まで札幌在住
大学進学後、東京在住(12年間)
その後、帰札して今に至る
・行政書士(2005年3月開業~現在まで)
(専門分野:相続・終活分野)
・日本行政書士会連合会 登録番号 17011700
・北海道行政書士会 会員番号 5761
・社会保険労務士有資格者(開業予定)
(専門分野:精神疾患を持つ方のための障害年金請求代行)
・妻、2021年11月誕生の娘との3人暮らし
・ライフワークとして、落語、ギター弾き語りを行っている
・立川談志師匠を心の師としている
出身校
・札幌市立福井野小学校
・札幌市立福井野中学校
・北海道立札幌西高
・早稲田大学法学部法律学科
職歴
1998年 | 大学卒業後、東京にてフリーター生活 |
2000~2003年 | 株式会社SRS研究所(東京都文京区) |
2004年 | 行政書士試験合格 |
2005年 | 札幌市西区に行政書士事務所みらくる開業(開業時の事務所名は行政書士佐藤勝太総合法務事務所) |
2020年 | 社会保険労務士試験合格 |
2025~2026年 | 社会保険労務士開業予定 |
生い立ち~大学生まで
札幌市西区琴似の「にいだ産婦人科」にて誕生。
幼少の頃から、よく鼻血を出す子供で、小学4年までに5回も札幌市立病院に入院しました(そのうち2回はレーザーによる手術も受けました)。
西18丁目駅近くの夜間救急医療センターに、夜中に何度担ぎ込まれたかわかりません。両親も大変だったことでしょう。
体が弱かったので運動がいいだろう、ということで、野球を始めました。私の小さい時のスーパースターは、巨人の王選手です。
以後、小学3年から少年野球チーム「福井キングタイガース」に参加し、中学・高校も野球部でした(大学時代も草野球サークルに所属)。
野球から学んだことは、「謙虚になることの大切さ」です。
私は、今から思えば、たいして上手な選手ではありませんでした。しかし、小・中学・高校とも運良くレギュラー選手になれたため、ムダにプライドが高かったように思います。
それ故に、ミスを極度に恐れ足を震わせながら守備につき、チャンスの場面で打順が回ってこないように祈るような、そんな選手でした。
自分のありのままの実力を知る勇気が、当時の私にはありませんでした。ただ、虚勢を張り、周りにノセられ、うぬぼれていました。
謙虚に自分の実力を知り、改善点を見つけ、克服するために地道にトレーニングを続ける、ということができれば、もっとマシな選手になれたのではないかと思います。
1年浪人の後、上京し、大学に入学。東京都杉並区高円寺のワンルームマンションでの一人暮らしが始まりました。
大学では、あまり勉強した記憶がありません。仲間と麻雀やコンパにうつつを抜かしていました。
今思えば、広い意味で、もっともっと勉強しておけばよかったと思います。
あり余るほどの膨大な時間とエネルギーを、学生の時にしかできないことに費やせばよかった・・・。今までの人生の中で一番後悔していることの一つです。
一つだけ誇れることがあるとすれば、草野球サークル「江戸の会」に所属し、一生ものの仲間を得たことでしょうか。
大学4年となり、同級生たちが就職活動に邁進する中、私は、このまま何となく就職する気になれませんでした。
そして、何を思ったか、2年間休学して、アイルランド・イギリスへの語学留学を決意。日本への帰路に、ヨーロッパ、中東、インドを、貧乏旅行、いわゆるバックパッカーを経験しました。完全に、沢木耕太郎の紀行小説『深夜特急』の影響ですね。
両親には心配と迷惑と、お金をかけさせました(苦笑)。
アイルランドに到着してまもなく、私の体に異変が起こりました。日本語が一切通じない環境での極度のストレスのため、髪の毛が抜け始め、あっという間に、薄毛になってしまったのです。
これは焦りました。まだ23才です。女の子にモテたい盛りの年代です。私が今ボウズ頭にしているのは、この時期に、薄毛を隠す(隠せていませんが(笑))ためにボウズ頭にしたのがきっかけです。
学生時代に学んだことは、(今思えばですが・・・。当時はそんな風には思えなかったです)、世の中には、社会には、世界には、自分と考え方がまったく違う、様々な人がいる、ということでしょうか。
学生時代に、多様な人々と触れ合ったことが基礎トレーニングとなって、「人付き合いにおける筋肉」のようなものとして、私の中に今でも残っているように思います。
大学卒業、東京フリーター生活、恩師との出会い、帰郷
帰国後復学し、大学7年=25才で、ようやく大学を卒業しました。
ここから東京での極貧のフリーター生活が始まります。木造建築の6畳一間風呂なしトイレ共同の部屋で、鬱々とした生活を送りました。
お金が無いにもかかわらず、正社員で働く気にもなれず、少しバイトをしては辞めて、という生活を繰り返しました。今のニート、引きこもりの先駆けですね。
漫然と、時の流れるままにだらしない生活を送っていた私を拾ってくれたのは、指回し体操で有名な医師・栗田昌裕博士と、その奥様でした。
ひょんなことから、博士の事務所で働くことになり、厳しくも広い心で、私を社会人として、「どこに出しても恥ずかしくない」一人前の人間に育ててくださいました。
栗田博士と奥様には、今でも感謝しています。
行政書士になる
その後、父のガンが見つかったことをきっかけに、31才の時に、札幌の実家に戻る決断をします。
帰札後まもなく、行政書士試験を受けようと思いたちましたが、これはまったくの偶然です。
札幌に戻った私は、しばらく何もやる気がせず、ブラブラしてました。そんな時に、ふと入った書店の「資格本コーナー」に、行政書士の受験参考書があったのです。
何も考えずペラペラめくっていると、ちょうど1年後に行政書士試験があると書いてありました。「1年あれば合格できるんじゃないか」と安易に考えたのが試験を受けたきっかけです(その後、行政書士試験の過酷さに悲鳴を上げることになるわけですが・・・)。
無事に1回目のチャレンジで合格しましたが、本当に大変なのはここからでした。
この行政書士の資格を使って、生計を立てていかなければなりません。
当時は、どこかの行政書士事務所に、職員として入社して修行するという機会は今よりもはるかに少なかったので、私には「開業する」という選択肢しかありませんでした。
しかし、開業すると言っても、資格以外は何もありません。
まず開業資金がありません(父が保証人になってくれて、国民生活金融公庫から300万円融資を受けました)。
そして、実務経験もありません(つまり、行政書士としての仕事のやり方がまったくわかりませんでした)。
しかし、若かったのでしょう、2005年3月、33才の時に事務所開業を強行しました。
最初は必死でした。毎日、朝8時から夜中の12時まで、1日16時間(こういうのを今どきは「セルフブラック企業」というのだそうです)、ほぼ年中無休で働くという生活は、その後約5年続くことになります。
過労入院、結婚、重度のうつ病、妻の病気、そして、娘の誕生=父となる、社会保険労務士試験合格
随分ムダな遠回りもたくさんしましたが、ようやく事務所経営が軌道に乗ってきた矢先、2010年の夏に転機を迎えます。
それまでのムリな働き方のため、過労で入院してしまったのです。
プライベート上のあるトラブルに頭を悩ませ、神経が高ぶってしまい、まったく眠れなくなりました。2週間近く、ほぼ一睡もできない日々が続き、ついにダウンしてしまったのです。
2週間ほどの入院で退院できましたが、今まで通りの働き方はできないんだな、と痛感した出来事でした。当時38才です。
その後、事業を一部縮小し、働く時間を短くして、休日もしっかり取るように、働き方を変えました。
また、何か趣味を始めようと思い、ボーカルレッスンに通い始めました。そして、20年以上手にしていなかったアコースティックギターを再開しました。人前でギターで弾き語りする活動も始め、これは今でも続いています。
2014年、42才の時に結婚(妻との出会いは、ボーカルレッスンがきっかけです)。同年、父が亡くなりました。
40代のある時期、ある1つの仕事上の失敗をきっかけに、重度のうつ病を患いました。
うつ病の苦しみは、なった本人にしかわからないとしか言い様のない、心と体の深部を揺さぶるような、壮絶なものでした。
朝目覚めた時に「ああ、また長く苦しい1日を過ごさなければならないのか」と絶望します。
昼間は、主治医に指導されたリハビリメニューを、休み休みしながら、やっとのことでこなします。
日内変動といって、夜は少しラクになるのですが、朝が来るのが怖くなり、眠れません。
いつ終わるかもわからない地獄の悪循環(ループ)に、命を削るような毎日でした。生まれてから最も死に近づいた経験だと思います。
2018年9月6日未明、北海道を最大震度7の地震が襲います(北海道胆振東部地震)。札幌の私が住んでいたエリアも、震度5弱。その後、約1日、停電(ブラックアウト)となりました。
なぜか不思議なことに、その地震の直後、フワッという感じで心と体がラクになり、うつ病の悪循環から抜け出すことができ、命拾いをしました。
同じ時期に、妻が、軽症ながら、精神の難病である統合失調症を発症しました。
自身の大病と妻の難病を経験して、今思うことは3つあります。
1つ目は「人間万事塞翁が馬」。
運命は、自分の力で制御することはできないが、不幸の中に幸のタネがあり、幸の中に不幸のタネがある。
だから、苦しくても希望を持つこと、調子が良くても謙虚であること。
病気によって失ったものも大きかったですが、その結果、今、手にしているもの、得ているものがあります。
2つ目は「人生は短く、命は儚い(はかない)」ということ。
私は2018年に死んでいてもおかしくない人間です。
せっかく拾った命なので、残された時間とエネルギーは、世間の常識に囚われ過ぎずに、自分の良き面を出し惜しみせずに表現することに使いたいということ。
3つ目は、「いい『仕事』がしたいなあ」ということ。
「仕事」というのは、いわゆるビジネスという狭い意味ではなく、「私が取り組むことすべて」というような意味です。
どんな「仕事」がいい『仕事』になるか、定義が難しいところですが、「関わった人々を笑顔にすること」かなと思います。
今まで育ててくれた人々、お世話してくれた人々、許してくれた人々に、恩返しをしてから笑って人生を終えたいですね。
さて、健康を取り戻した私は、社会に戻るリハビリとして、さまざまな場所でボランティアをしたり、短時間・短期間のアルバイトをしたりしました。
たとえば、介護施設でお年寄りのお世話、障害者福祉施設で知的障害のある方の外出のお手伝い、お寿司屋さんの出前ドライバー、北海道への移住政策を推進しているNPOの職員などです。
とても新鮮な体験でした。今まで交わったことのない方々との出会い、今まで考えたこともない分野での仕事は、私の視野を広げてくれたように思います。
そして、今まで行政書士として提供してきたサービスの、全面的な見直しに入りました。本当にお客様が求めているサービスは何かを考え、それを提供するために不足している知識や技術を身につける努力は今でも続いています。
また、精神疾患で苦しむ人をサポートするため、障害年金の申請支援を専門分野にしようと、社会保険労務士試験を受験を決意。2020年、2度目の挑戦で合格。
行政書士業務が忙しくなかなか準備が進みませんが、2023~24年中には、社会保険労務士としても開業登録しようと考えています。
そして、そんな私たち夫婦の間に、2021年11月に娘が誕生。49才にして初めて、父になりました。
昭和の高度成長期に生まれた男が今、令和のイクメンパパとなって、日々、妻と共に育児に奮闘しています。
娘が生まれて以来、世界観や人間観が大きく変化したように思います。
お腹の大きい妊婦さんや、小さい子を連れているママさん・パパさんたちと、まるで友達になったかのように親近感を感じます。
そして、親としての目線で、物事を見ている自分に気づきます。
つい先日、「となりのトトロ」を観て、我ながら驚きました。若い時に観た時には、何も見えていなかったのだと。
そして、月並みですが、両親のありがたみが身に沁みるようになりました。
相続・終活業務への思い
私は、お年寄りのお相手をするのが大好きです。
そういう雰囲気を漂わしているせいか、街を歩いているとよくお年寄りに道をたずねられたり、話しかけられたりします。
お年寄りと話していると「人に歴史あり」と感じます。どんな方でも、今まで生きてきた喜び、苦しみがあり、それが表情や言葉の 端々(はしばし)に表れています。
いったん私はすべてが0(ゼロ)になり、限りなく死に近づきましたが、なぜか生き残りました。
拾ったような命ですから、行政書士業務にあたっては、目の前にいる生身の人間を相手にする仕事をしたいと思いました。
それが私にとっての相続・終活業務です。
仕事以外の活動
趣味、といいますか、ライフワークと言うべきかもしれませんが、落語(演じる方です)とギターの弾き語りです。
落語は、人前で演じるようになって8年目になります。
芸名は「代書屋みらくる」。「代書屋」は、古典落語の「代書屋」(行政書士の由来となった明治・大正時代の職業)から選びました。
「みらくる」は、私が好きな立川志らく師匠の「らく」の字を使いました。
「札幌落語倶楽部」というアマチュア落語サークルに所属し、定例の寄席や、町内会などのイベント、病院・介護施設などで、落語を演じています。
私が落語は好きなのは、立川談志師匠が「落語とは人間の業の肯定である」と残しているように、落語が常に「弱き者の味方」であることです。
落語には、ドジな人、マヌケな人、そそっかしい人、欲張りな人等々、ありとあらゆる人間の失敗パターンが出てきます。
それをお説教ではなく、優しく笑いで包んで表現するのが落語です。
落語を聞くと心がホッとします。自分の悩みが小さいものに思えてきます。落語は人生の宝であり、日本の宝です。
ギターの弾き語りは、私が子供時代~青春時代に馴染んだ曲を、主に歌います。レパートリーは100曲以上。ライブバー、カフェのイベント、お年寄りの施設や町内会のイベントなどで歌っています。
いつかyoutubeでチャンネルを作って、好きな曲を思い切り歌いまくるのが、ささやかな夢です。
最後に。これからの人生は?
私の娘(2021年誕生)が、平均寿命まで生きるとしたら、22世紀を生きることになります。
ですから、大事に育てなきゃ、と思います。
その時、私はもちろん死んでいるでしょう。その時、日本は、世界はどうなっているのか。そんなことを、最近考えます。少しジジくさいですね(笑)。
私にできるのはほんの少しのことですが、周囲の人々を笑顔にできるよう、これからの時間を生きていきたい。
私の人生の大きな柱の1つである行政書士の仕事の中でも、そういったことを表現・創造してゆければと考えています。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました。
このホームページがみなさんとの出会いのきっかけとなりますように。
行政書士 佐藤勝太